1988年長期留学の話
英国でのレッスンは「本当のものへの追求」です。競技会ですぐに結果が出せるような即効性のあるレッスンなどあるわけがありません。まっすぐに立つ事、ホールドや姿勢の捻じれを矯正しつつ合理的に身体を使い、身体をまっすぐに推進して行くための基本動作の繰り返し。無駄を除いてカップルのハーモニーを求めるレッスンの連続に、日本から短期でやってきたカップルは、すっかり「毒気」が抜かれたころに帰国するのですから、「英国に行って悪くなって帰って来た!」とか「『英国病』にかかったな!」などと口にする先輩諸氏が多いのは事実です。
私がプロとして最初に英国に行ったのは1987年のことです。このときはちょうどUK選手権が終わった2月中旬からの1カ月という短い期間でした。あっという間に過ぎた1カ月で、やっと生活に慣れて来たかなと思うくらいで、これといった成果も感じられず帰国が迫っていた頃、すでにロンドン入りしていたとある先輩から、「次に来るならもっと長いスパンで事を考えないと駄目」とアドバイスを頂きました。その時こんな風に言われたのです。
「英国で本当のものが頭や身体に入って来て、ちょっと上手くなった気になるのが最初の1カ月。で、二月目に入ったころから、これまで身体にこびりついていた悪いものが出始めて、ダンスが悪くなる。それを我慢して堪えてレッスン、練習を繰り返すと、三月目に入って本当のダンスが出来始める。本当のダンスで勝負が出来るころにコンペで戦えれば全英選手権でもチャンスが来るかも。だから次に来るなら最低3カ月のプランで考えなきゃ意味がないよ」と。
「3カ月ですか……」
長いですよ。スタジオからお休みをもらえるものかどうか、仕事もしないのですから収入もなく、英国でレッスンと練習に時間を費やし、その間の日本での賃貸の家賃の支払いなど必要経費は普通にあります。スポンサーもない状態で、支出のすべてを個人で賄わなければなりません。
でも私は逆にこう思いました。「どうせやるなら、3カ月じゃなく、もっと長い期間ロンドンにいよう!」と。87年の末から88年8月末の後期西部日本選手権、秋の全日本選手権を目標に、8カ月の予定を立てました。必死で働いてお金を貯めて、スタジオのオーナー先生に懇願し、やっとのことで許可をもらい……。でもその時、オーナーからはこんなことを言われました。
「時間はあげる。でもあんたが帰ってくるとき成績が上がっている保証は何もない。あんたの生徒があんたの許に帰ってくる保証もない。今以上に働けるかどうか、その保証もない。すべてを無くす可能性があっても、あんたは勝負をするっていうの? それを覚悟できるなら、行っておいで」と。本気で人生の勝負をするのか、それを問いただされた瞬間でした。
1987年12月末。スタジオの冬のパーティを終えた後、一大決心した8カ月に及ぶ英国でのダンス漬けの生活が始まったのです。
☆
しかし、ダンスの成績はそう簡単に動いてくれるものではありません。1月末のUK選手権でもあっと言う間に撃沈。3カ月経ったころの春シーズンに一度、オーストリアへ招待コンペに出場するも、あえなく不発。5月の全英選手権では体調不良から高熱を出し、無様な結果で終わってしまいました。失意のどん底でした。
全英が終わり、すべての日本人カップルが帰国の途についても私たちはロンドンに残りました。6月の日本インターもこの年はエントリーしていません。友人も誰もいなくなったロンドンでの生活。成果も何も出ないロンドンでの生活。喧嘩もしょっちゅう。厳しかったです。寂しかったです。辛かったです。
それでもレッスンと練習は続きました。毎夜のように開催される練習会にも欠かさず参加。汗で何度着替えたことか。
8月に入ったころの快晴の週末。午前中のレッスン後に一度ブライトンまでドライブし、レッスン着のままビーチで日光浴したくらいが息抜きといえば息抜き。ろくな観光旅行もせず、同じ事を「今やれ」と言われてもとても無理。そんな生活が続いたのです。
1988年8月。お盆明けにようやく帰国。帰国直後の後期西部日本で、念願の、初の西部日本チャンピオンの座を獲得することができました。
しかし、これはまだまだ序の口。世界の舞台、いやいやその前の世界の「登竜門」への道も、まだまだ厳しいものがありました。
(次号へ続く)