私のダンサーとしての原点 ~学生ダンス(その1)~
このコロナ禍のために気持ちが沈み、なかなか前向きになれない今、皆さんはどのようにダンスに取り組んでいるのでしょう。今年の競技会はほぼ全て中止になっていますが、近い将来のwithコロナでの開催に向けた模索は進んでいます。モチベーションの維持もままならない状況ですが、「今だからしておくべきこと」に勤しむことが、再開時の成功につながることは言うまでもありません。
私が大学生の頃、弱小クラブの部長として責任感だけで嫌々レッスンを受け続けたあの1年が、実は「最短で上手くなる道」だったことは、今になって分かったことです。今月と来月、そんな私のストーリーをご紹介します。一つの参考として読んでいただけたら、と思います。
学業に勤しみ、人間形成を深めようと意気揚々と関西学院大学に入学したものの、すぐには環境に馴染めず、私の学生生活の始まりは何とも寂しいものでした。どこかのクラブに入部しようと色々見て回ったのですが、なかなか入部できそうなクラブもなく、一人キャンパスを歩いていたところ、ちょっと精悍な顔立ちの男性(西原先輩)が近づいてきて、「君、よかったらジルバ講習会に来ないか?」と。「いや〜ダンスはちょっと」と言いつつも、「来てくれたら今晩ビール奢ってあげる」の一言につられてついて行ったのが、私のダンス人生の始まりだったのです。
ダンス音楽が流れている部屋(ベーツホール)を覗き、恐る恐る入室。その後の流れは全く記憶に残っていませんが、「明日もやってるからおいでよ〜」と言う井ノ上部長の誘いと勧誘してくれた西原先輩のビールもあって、翌日もまた講習会に足を運ぶことになったのです。
ジルバの簡単な基本のステップはすぐに覚えたものの、一緒に踊ってくれた女性の稲井先輩から「リードがないからわからない〜」と言われる始末。ステップを覚えれば申し合わせで踊れるものではないことは教わったものの、やはり何となくこのジルバ専門?のクラブは自分には向いていないと感じていたのです。
ところが、そのジルバ講習会の終わりで、先輩たちがジルバとは違う練習を始めたではありませんか。「あれ? これは何ですか?」と聞くと、「これはワルツのナチュラルターンというステップ。実は俺たちは学生競技ダンスをやってるんだ〜!」と。「はあ? 競技?」「実は関西学生舞踏競技連盟というのがあって、この部も含め、京大、阪大、神戸大、大阪市立大、京都工芸繊維大、関関同立、天理大なども加盟してるんだ!」と。
スポーツ系か音楽系のクラブかに迷っていた時に、音楽もあり身体をいっぱいに使って動くこと、そしてそれが競技としてチャレンジしていることを知り、一気に入部へと気持ちが動いたのです。
そして入部して1カ月くらい経った時、先輩に「この週末に春季関西戦という競技会があるから、君も応援に来なさい」と言われ、大阪市城東区の区民ホールだったと記憶していますが、先輩に連れられその会場へ行ったのです。そこはまったくの別世界。これまで経験したことのない雰囲気に包まれていました。
まず最初に驚いたのは、その競技会に参加している学生の多さ! しかも男性は異様に身体にフィットしたダンス用の学生服を着用し、ヘアスタイルは黒光りするほど綺麗に固められ、女性は背中を大きく開けたドレスを着て、しかもメイクのどぎついこと。競技が始まると、今度は音楽が聞こえないほどの大声で自分の大学をコール! 優雅に楽しむダンスのイメージが吹っ飛んだ瞬間でした――。
夏合宿も経験し9月の新人戦に向けて準備も始まったものの、弱小クラブの練習は部員も少なくレベルも決して高いとは言えず、競技に勝てるような条件も雰囲気もないままに、生まれて初めてのダンス競技会、第1回学年別戦の日を迎えたのです。ところが、朝の練習時間にライバルとなる同級生の練習を見ていると、「な〜んだ、下手くそ〜、これなら優勝じゃん!」となぜか「変な自信」を持ったのです。結果は、ファイナルに入ったものの最下位6位。でもこの満足のいかない結果が、競技ダンスの世界にさらに入りこむきっかけとなったのです。もしあの大会で優勝していたら、きっとダンスは続けていなかったと思います。
そして、年明けから、変な自信や安直な思い上がりを打ち砕くプロ(故久保文子先生)のレッスンが始まったのです。しかし、同時にそれは、その後の私の全英ファイナリストに駆け上がっていくベースとなる、下地作りの始まりでもあったのです。(次号に続く)