「ダンスの近未来像」
今年5月から始まった令和の元年もあと数日を残すだけとなりましたが、皆さんにとって新しい時代の始まりはどのようなものだったのでしょう。間もなく令和2年が始まりますが、外交問題に絡んだ憲法改正、キャッシュレス時代の到来、AIを基にした新時代にふさわしい発展を見せ始める年になるのではないでしょうか。
しかも2020年は「東京オリンピック」の年。このビッグイベントを大成功に導く準備が各方面で急ピッチで進められています。日本に訪れる海外からの皆さんは、これまでの日本とはまた違った、さらに進化した側面を目の当たりにするのではないでしょうか。
進化の側面は、何もインフラの面だけではないでしょう。そのオリンピックゲームに挑む選手のレベルアップ自体も、相当なレベルの高さを誇っているようです。先のラグビーW杯で大躍進を見せ、「ONE TEAM」が流行語大賞に選ばれるほどの社会現象になったように、陸上競技、テニス、水泳、卓球、ゴルフなど他の競技でも、世界のトップで活躍する日本選手は過去に例を見ないほど数を増やし、メダルの獲得数も過去最高になるのではと期待を抱かせるほど、日本のアスリートのレベルは向上しているのです。
私たちのダンス競技も、将来のオリンピック種目を目指す動きがないわけではありません。JDSFはすでに日本スポーツ協会(旧日体協)に正加盟を果たしており、ダンス競技がスポーツであるとの認識がなされ、現存のトッププロも、国内での高額賞金を争う競技会に果敢に挑み、プロ・アマともに世界のダンスに挑戦し続けています。ジュブナイルやジュニア出身の若い世代もまた、世界の檜舞台で大いに活躍しているのを見るにつけ、日本の将来を期待せずにはおれません。
ところがこれらの頑張りとは裏腹に、実のところ現状は厳しく、世界レベルではまだまだ低迷が続いていると言わざるをえません。では一体なぜ? それはやはり、ダンス界自体が複数に分裂し長い年月が経ってしまっていること。これが一番の背景にあるのではないでしょうか。組織の分裂が業界の弱体化、選手レベルの低迷に直結してしまっていることは否めません。
ダンス競技は何を良しとするのか?踊り手も審査員も、「本当のダンス」を追い求める。
そして、ダンス競技そのものがオリンピック種目として採用されていない理由、ダンス競技における「審査の不透明性」も挙げられるかもしれません。審査員の採点が割れていることがよくあります。これはジャッジの主義主張の違いや選手のダンスのレベルが拮抗していたり、ダンスの内容にムラがあったりすることもその理由として考えられます。採点が割れたとしても、平均値はクリアに割り出されます。だからこそ平均値をとる「スケーティングシステム」という採点の集計方法が長年にわたり採用されているのです。
しかし、今のままではその判定基準が、一般に非常に分かりにくいという事実もあります。技に対する加点・減点の基準が明確にされているフィギュアスケートと同じような採点方法でなければ、オリンピック種目に認められることは難しいと言えます。
ダンス競技の採点方法が一般に分かりにくく、しかも指導する者が審査をすれば当然、依怙贔屓が生じるという感情的側面、そしてそもそも「スポーツとしてのダンス」と「芸術としてのダンス」という両側面が存在していることも、「ダンス競技は何を良しとするのか?」、その価値基準さえ曖昧である現状を考えると、そう簡単に解決できる問題ではないように思えてしまいます。
しかし、世の中にはバレエや絵画の世界の「コンクール」という競技会もあるのです。これは芸術や文化の世界での優劣を競うものであり、そのレベルが高ければ高いほど一般にはその優劣の判断が非常に難しいもの。芥川賞や直木賞などの文学、はたまた学術分野でのノーベル賞なども、このコンクールの一種であろうと思います。社交ダンスの競技会も一種コンクールとしての側面を持ち、比較対象を基準にした審査によって発展してきた歴史があるのです。
近未来のダンスのスタイルがどのようなものに発展していこうが、スポーツとしての側面と芸術文化としての側面がそれぞれの奥の深さの部分で上手く融合していくのは当然のことです。それぞれの競技の場でその価値基準や評価対象が明確になっていくときに、また新たなダンス文化が根付いていくのではないかと考えます。
スポーツであろうと芸術であろうと、ダンスは一つです。踊り手と審査をする者が正しく「本当のダンス」を追い求めるなら、私たちの愛するダンスは感動の域に昇華し、その時こそ、ダンスの近未来像として誰にでも受け入れられるのではないでしょうか。